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TEXTILE COLUMN福田織物のテキスタイルコラム

私が40年間見続けてきた天龍社織物の歴史 昭和時代編

2020.10.15

遠州織物とは静岡県の、御前崎市、掛川市、袋井市、磐田市、浜松市から成り立っています。

その中で、天龍社織物組合と、遠州織物組合の2つ組合に分かれています。

天龍社織物組合は、別珍コール天を基盤に、綿織物を全般的に織っていました。

遠州織物組合は、平織り、先染めストライプで、シャッ地を織っていた、どちらかで言うとドレシーなイメージ生地でした。

2つの組合を合わせて、遠州織物と言われますが、現在、遠州織=浜松市になっているような気がしてなりません

遠州と言えば、現在では、インターネットでの発信で、間違っている情報、場合によると勘違いするような書き方がされているので、あえて、私なりに遠州織物とはこのコラムに書くことにしました。

私自身、40年間、観てきたこと、体験してきたことを、コラムで、書こうと思います。

私なりの事実を書こうと思いますが、今までと言われていることと、随分違うことも書きますが驚かないで欲しいですね。

皆さんに知って頂きたいことです。

40年前、1970年代は、遠州産地は、ほぼ、シャッ地、TC(テトロン綿)のテキスタイルがメインでした。そして、別珍コール天です。そして先染めストライプブロードです。

ほぼ欧米手向け、90%以上が輸出されていたので、今さら、海外輸出は珍しいことではなく、逆に国内に売る事の方が珍しかったほどです。

当時は、産地は、産元が牛耳っていて、ほとんど織物工場は賃織でした。

賃織りとはただ頼まれて生機を織だけの工場で、生地を染めたり、企画をしたり、生地を販売する機能はありません海外輸出は、自社では行っていないので、生機を織だけの会社になります。輸出しているかは、工賃工場は正確には、分らないはずです。

このような生地の流れは、産本から紡績へ、そして商社から、遠州織物の生地は、海外に輸出されていたのです。

現在でも、遠州織物は、海外には輸出されています。

福田織物の輸出は、海外ブランドに直接、自社企画、製造、販売しているのです。自社で輸出業務、海外のブランドから連絡を取りながら、ビジネスを行っているのが、私達のビジネススタイルです。

1970年代は、99%が、シャトル織機で織っていました。当時では、シャトル自動織機は、大量生産織機になります。日本は、大量製造機シャトル自動織機のおかげで、世界のどこよりも大量に生産し、格安のテキスタイルを、欧米向けに販売してきました。

そのため、世界の織物産地が、日本のせいで、潰れていくことになりました。当時は、今では、とうてい考えられませんが、その頃から、日本たたきは、政治的に始まっていました。豊田織機、鈴木織機、津田駒など多数の織物機械メーカーが国内にありました当時では、世界的に、1国に、数社の織物機械メーカーがあったのは珍しかったと思います。

ちなみに、当時の世界では、アメリカ、ドイツ、イギリス、イタリア、ベルギー位しか織機メーカーが無かったと思います。ですので、日本の工作機械メーカーはとても技術があたのです。ですから、当時は、シャトル自動織機は、大量生産して世界を圧倒していたんです。

シャトル織機は、力織機から自動織機にかわりましたが、当時の人に言えば、自動織機(織物機械)は、風合いが悪いと言われていました。新しい織機を入れるたびに、いつの時代でも、根拠ないことを言う人もたくさんいました。

当時は、紡績から産元ラインで賃織りの、工場は、98%位だったと思います。特に、紡績が強く、日本の経済を引っ張っていた時代です。

代表するのは、東洋紡、日清紡、ユニチカ、カネボウ、シキボウ、都築紡など、たくさんの紡績が乱立していました。需要と供給が良く、織物工場は、1年間、工場を24時間、年間回していました。それだけ、供給が追い付いていない時代でしたので、織物工場は、ずんずん増えていきました。

1973年が、組合数が1620社でピークでした。私が入社したのが、1978年ここから、徐々に織物工場は減り始まました。でも、やはり、当時は、織物工場は活気にづいていいました。

しかし、1972年に、日米繊維協定が調印皿ました。日本製品が米国市場で幅を利かせるようになると、1971年2月に業界団体である日本繊維産業連盟が自主規制案を発表。これを不服とした米国は輸入制限の発動をちらつかせて日本の譲歩を迫りました。米国は沖縄を返還する代わりに、日本に繊維製品の輸出を規制するよう求められました。

当時の私には、よくわからない話でしたが、ここから、アメリカ向け輸出が減り始まりました。そして需要と供給が崩れ始めした。365日、受注があった時代から、少しづつ受注量は減り始めていたのは確かです。当時は、2月と8月が悪い時期ができるようになりましたが、後に、もっとひどくなっていきます。

1985年には、プラザ合意が決まりました。プラザ合意とは各国はドル売りに乗り出します。ドル円レートは、合意前は1ドル240円台だったのに対し、年末には1ドル200円台へ。さらに1987年末には1ドル120円台となり、日本経済は一時的に円高不況に陥りました。

この時代から内需拡大ということで、通産省(経済産業省)から、繊維の方向性が変更された時代です。

政府は、内需主導型の経済成長を促そうと、公共投資を拡大するなどの積極財政を展開。さらに日銀は長期的に金融緩和を実施します。

この結果景気拡大がもたらされ、バブル景気に繋がっていきました

繊維業界や、遠州織物産地は、アメリカ向けから、国内向けに変わった時代でした。

私自身の20代でした。ファッション業界は、大きなうねりとして発展していました。

1980年には、ハマトラというファッションが、70年代後半に神戸より始まったエレガンスファッションが80年代に入り、横浜を中心にカジュアルダウンしたスタイルが流行。横浜トラディショナル=ハマトラとして雑誌『JJ』にて紹介されたのをきっかけに一般化した。

「ニュートラ」「ハマトラ」「ボディコン」「プレッピー」「オリーブ少女」「ポパイ少年」「キャリアファッション」「カラス族」……ファッションの方向性がそれぞれのライフスタイルに合わせて枝分かれした80年代。ブランドのオープンや雑誌の創刊が相次ぎ、さらに渋谷・原宿・銀座といった街とファッションが結びつき、それぞれのコンセプトが強くなった時代だった

1985年頃のアパレルは、右肩上がり売上を出しておりましたが、残念ながら、遠州織物産地は、この時期をもって急激に産地は、シュリンクしていきました。

他のブログには、大量生産機、エアージェットやレピア織機が廃業、倒産と書いてありますが、全く違います。大量生産機シャトル織機を営んでいいた会社が、ほとんどが辞めていくことになり、天龍社組合数は、1973年1620社から1987年には815社、約15年でシャトル織機の織物工場は半減してしまいました。

1988年から、織機も革新化進み、この時代から、シャットルレス織機が、織機メーカーから売られるようになりました。弊社も、1982年から、先駆者的にレピアというシャトルレスを購入しました。当時のレピアは、回転が200回転で、シャトル織機と生産性は、何も変わりませんでしたが、その代わり、織物の変わり織、先染めのチェック織などで、国内需要があり、はっきりってレピア織機を導入したところは儲かっていました。また、エアージェットという500回転、シャトル織機の倍速で織り織機も遠州には入りました。

当時は、織物工場の技術のある工場、前向き思考の工場は、革新織機、レピア織機、エアージェット織機が、徐々に入っていきました。もちろんレピアは、多品種少量生産型の機械だったので、国内アパレルから受注量は、たくさんあり、シャトル織機の工賃より2倍から5倍まで出ていましたから儲かりました。大量生産型エアージェットはどうなったのか言うと、コーデュロイをやっているところは、レピア以上に儲かっていました。また、面白ことに、エアージェットは平織しか織れないと言われていましたが、当時の技術のある工場がエアージェット導入していたので、シャトル織機、レピア織機では織れない織物を織って儲けていました。

1989年から、遠州産地は、本格的に革新織機ブームが起こります。

この続きは、次のコラムで書きます。

サウンドクロス 高密度織物のYouTubeです。

https://www.youtube.com/watch?v=poih9Fl31eM&t=275s

福田織物のInstaguram

https://www.instagram.com/fukudaorimono_backyard/?hl=ja

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