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TEXTILE COLUMN福田織物のテキスタイルコラム

織物工場は遊びの延長 ①過去の経歴扁

2022.06.20

福田織物の福田です。

今回は、織物工場は遊びの延長

何故、意味の解らない題名なの?

自分が40年間、この織物世界で残れたことが何だったのか?を振り返るとこのような事でした。

私の経歴

私の学生の頃は、稼業の織物工場には絶対入りたくなかった。と思いがありました。

言いにくい話ですが、自分の将来が親の意志で決まることに関して憤慨しました。まだ、中学成の時でしたので反抗として勉強することを諦めまして

高校卒業後、工業技術専門高等学校で織物機械を学び、その後、他業種の会社に勤め、社会人として経験積んで、個人経営だった福田織布(当時の会社名)に入社しました

しかし、稼業を継ぐと、不思議な事がいっぱいで、繊維業界の常識が、当時の私には非常識と映っていました。

下記のことになります

①織り工賃制度⇒こんなに頑張っているのに工賃が安いの? これでは織物業をやる意味があるの?と悩んでいました。

②能力の低いサラーリーマンにあごで使わらなくちゃいけないの? 本当に産元の社員と論争ばかりしていました。

③40年前は、織物業は、本当に一般の人からバカにされていた産業でしたので、織物業に入って精神的苦痛だったことは間違いありませんでした。

以上3つのことで、正直繊維産業から逃げ出したかったのも事実です。

そして考えました。

目的⇒目標⇒戦略⇒戦術 を?

結果は、織物工場は遊びの延長 「自分で企画して、自分で織、自分で売る」このようなことができたら楽しいな。と思ったことを実現しようとスタートしました。

話を戻します。

40年前の自分の趣味は、車は改造すること。後はゲームが大好きで、48時間寝ずにゲームをやっていました。バカでしょ?

特技ゲーム。そしてパチンコのスロットルではプロ級でした。

そんな自由人だったのですが、萩本欽一さんの、博打運を仕事にすると成功するよ。とTVなのか、雑誌なのかは覚えていませんが博打が強かったので仕事にこの運を使うことにしました。

20代の頃に目指した目標は、賃織りをやめて、「自分で企画して、自分で織、自分で売る」目標を決めてテキスタイルメーカーを目指す。ことにしました。

当時の、私の若い頃に考えは単純ですけど結果は正解でした。そして若い頃の自分の行動力は流石です。自分を褒めます。

「自分で企画して、自分で織、自分で売る」目標をゲーム感覚でスタートしました。

ゲームに勝つには、まずやることは軍資金をためることです。

考えたのは、当時シャットル織機で、遠州の綿工賃は0.8~1.2円が相場でした。当時の福田織布(昔の会社名)20台のシャットル織機を保有していました。

まずは売上目標は、同じ時間内で3倍するには、選択は下記の2つの方法があります。

①今の工賃を単純に考えても3~5倍の高い織工賃をやる。

②織機スピードを3倍にする。

ゲームとすると、もともと資金がないから、単純に最新鋭の3倍速く織れる織機は1台約1,000万円、最新鋭織機10台入れれば1億円の資金が必要になりますのでドロップになります。

では、簡単に売上をあげることを考えれば、3倍金額の高い織工賃を目指せればいいわけです。

当時は、織物工場を営んでいる人達は遠州産地だけで仕事受注を考えていたんです。だから先ほど書いてありますが、0.8円~1.2円の織工賃では売上ができないので24時間土日稼働している織物工場は当時はたくさんいました。

話を戻しますが、実は、当時は綿以外の織工賃は良かったんです。

私は40年前は、遠州でなく、滋賀、愛知の産地の情報を取りに行っていました。

当時の滋賀県の麻の工賃は3~5円も工賃で出ていました。もちろん愛知県の尾州産地のウールも3円以上がウールの工賃相場だったんです。今では考えられませんが?

県外の親織、紡績などの取引を行い、遠州産地からの仕事をゼロにして綿から麻、ウール素材に変わりました。

その時に、シャットル織機から、本格的に、ダブル巾のレピア織機を導入しました。借金も増えましたけど。

数年後には、福田織物の売り上げは3倍に達成しました。そして賃織りでしたので、凄く儲かりました。

ゲーム感覚でやっていたのでとても楽しくポイントを上げることだけ考えて行動した結果です。

しかし、このようなゲームは、長く続きませんでした。このゲーム仕組みは他社の織物工場に真似され、次第に織工賃の相場が下落し始めました。

原因は、ダブル巾レピア織機は、他社の織物工場に導入され、すぐにブルーオーシャンからレッドオーシャンに変わっていきました。

結論、少数派が勝てる。しかしお金で織機は買えるものは、すぐに多数派になってしまう。良い経験をしましたし、経営のコツを少しづつ覚えていきました。

織物工場経営ゲームはここでゴールではありません。

さて、もっと上のステージを目指すために、参入障壁の高い事をやらなければなりません。

そこで目標「自分で企画して、自分で織、自分で売る」ことを次のステージを目指す。ことにしました。

麻、ウールの織工賃仕事をやめ、綿織物メーカーを目指しました。

何故、麻ウールを辞めたのは、「竜馬がゆく」の本の中で、「退路を切る」竜馬のような前に進む生き方が好きでした。

実際、考えるとやるのでは大違いでした。

でも、いつもゲーム感覚でやる。と意識していましたので精神的に余裕がありました。

当時、誰もが織物工場がメーカーを目指してやってないから、参考するような織物工場、教えてくれる人はいませんでした。そのため情報取集は限界がありました。

そこで、一度、遠州地区の綿の仕事に戻り、軍資金、綿の最強アイテム、原点に戻り、ゲームの仕組みづくりを構築しました。

まずは、テキスタイルメーカーを作るには、情報が全くないので、組合活動に参加して、能力の高い人たちに出会うことを目的として、自分の知りたい情報取集を徹底的にしました。

そこで知り合った、故.鈴木さん(現在はありません。グループパトス代表)、とんでもないほど怪物でした。

初めの頃は、鈴木さんの話を1時聞くだけで、脳にインプットすることが限界でした。それぐらい話の内容が濃い話でした。

ゲーマーの自分は負けることがない自信がありましたが、初めてオヤジ以外で、この人に勝てないと痛感しました。

その鈴木さんから色々なことをおしわりながら、いろいろなネットワークを張ることで、次のステージ、自分で企画、自社工場生産、自分で売る。スタートを切ることができました。

このゲームは更に高度になりますし、参入障壁はかなり高く、お金で織機を買っていくビジネスプランとは違い真似されにくいビジネスプランになります。

今度は、人材を増やし育てる、ゲームとしてとても複数のことを同時に瞬間的に行うスピードが必要になりゲームとして夢中になりました。

あの頃は楽しかった、何時間も働けました。

つづく