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TEXTILE COLUMN福田織物のテキスタイルコラム

遠州織物の歴史

2020.03.09

遠州織物の歴史を書きたいと思っているのは、遠州織物とは?認識をしっかり伝えたいからである。

個人ブログなので、多少の偏見が入っているので、気に障ることになるが承知していただきたい。

そもそも遠州産地(御前崎市、掛川市、袋井市、磐田市、浜松市)で織物が盛んになって理由は、私なりの見解になるが3つある。

①遠州産地は織物織機の生産拠点に近かった:東海地区には、明治23年に、遠州浜松市出身の豊田佐吉が、となり町の愛知県知多郡で、豊田木製人力織機を発明し、後、大正14年には「自動織機」を完成させたことにより、東海地区の織物業が発展したと思われる。当時は、知っているだけでも、鈴木織機(鈴木自動車)遠州織機(遠州製作所)などの、織物機械メーカーが東海地区にあった。地域が織機メーカーと直結していたため、静岡や愛知県は、織物産地に発展しやす環境だったのだろう。

②綿紡績の発展;明治後半になると、綿紡績工場が発展してきて、昭和40年代は、世界トップクラスの綿紡績、東洋紡、日清紡、ユニチカ、カネボウなど会社が日本の産業界を引っぱてた時代である。その織物生産基地として遠州織物は発展してきたのである。賃織という言葉は、綿紡績会社が、遠州産地の産元(コンバーター)に仕事を依頼して、産元から遠州産地の織物工場に仕事を発注することを賃織りと言う。1950年(昭和25年)頃から日本で発生した景気拡大現象である「ガチャマン景気」がきたのである。当時は「(織機を)ガチャと織れば万の金が儲かる」と言われていて、農家から、畑を売ったお金で織機を買い織物工場を創業していった。昭和48年頃には、4000社近い織物工場があった。

③東京と大阪の中心地区による利便性;遠州地区は、東に東京、西には大阪があり、物流には、東海道鉄道を利用できたことがメリットで、遠州織物産地が大きく発展していった。

以上、このような3つの経過が、遠州産地のの織物産業が発展していった。

遠州の織物は、戦後、昭和20年代から、紡績の発展から、産元、織物工場、染色工場で、賃織りビジネスが成り立っていた。昭和46年までは、大きな波はあったが、好調期であり、ガチャマン時代をふくめ、欧米向けに、綿や綿ポリ混紡生地を、紡績が産元を使って生機生産を依頼し、染色加工などを経て、圧倒的な安い生地で海外に生地販売をしていた。当時の、紡績は、世界一大きな会社になっていた。当時の賃織りの、生地は、ほぼ欧米向けに輸出されたいた。ですので、今では、輸出していると凄いと思われているかもしれないが、当時は、輸出が当たり前の時代だったのである。

当時の為替は、固定相場で1ドル360円 2ドル720円/mの生地を販売できていた、、現在は、為替は、変動為替になって、現在1ドル105円、720円の生地なれば、約7ドルで販売しなければならない。同じ価値の生地でも、2ドルと7ドル差なんだから、いくらコストを落とすための企業で努力では2ドルで作ることは到底無理な話だ。変動為替は、プラザ合意(昭和50年)から、急速に海外輸出ができなくなってきた。

昭和52年から、輸出の仕事が、かなり減ってきたので、国内販売に売り先が変わってきた。勿論、織物工場の減少が、ここから急激に始まった。ちょうど、このころに私は、福田織物の2代目として入社したのである。輸出の減産は、低工賃と少ロット生産になり、織物工場は、倒産、廃業が現在まで続いている。私が、この業界に入ってから、織物工場を創業した会社は、知っている限り1社もない。ただ、織物工場、染色工場が無くなっていく光景しか見えなかった。また、紡績も同じように、紡績、織物工場を閉めていく時代だった。遠州織物産地が斜陽産業であり、どこまでも暗い話しかされてない闇の時代に突入したのであった

昭和56年頃、大阪でオテマスと繊維機械展があり、当時は、ほぼ99%がシャトル織機の時代に、シャトレスの革新織機が、大々的に発表された。勿論、革新織機は、もっと前から開発されていたが、実用的になったのはこの頃だった。シャトル織機の毎分200回転だったのが、500回転で織れるエアージェット、なんでも織れる万能織機として低回転レピア織機が販売されたのであった。中規模以上の織物工場は、毎分500回転出さるエアージェットを購入し、変動為替のギャップを回転で競争力を補うことをしたが、為替は360円から100円台に突入して目算を誤って、かなりの廃業が綿織物工場は続いた。あり意味、革新織機は救世主とはなれなかった。

昭和60年頃には、国内アパレルが、力をつけて、昭和50年の倍近い売り上げができ、特に、百貨店も、昭和58年から急成長し始める。遠州産地も、海外輸出から国内向けの生地に転換始めていくことになる。平成になれば、ほぼ遠州産地は、海外向けから国内向け生地が主流になっていくことになる。当時は、国内生地価格が高かったので、輸出単価より、工賃は国内向けが高く採算も良く、バブルの影響もあり、技術のある織物工場は業績は一時的回復した。しかし、技術的に難しい所は、相変わらず織物廃業の減少は歯止めがきかなかったのである。

平成に入ると、バブルの崩壊から、中国から、超安い生地、製品などの輸入攻勢が、始まりアッという間に、国内向け生地工賃の下落が始まる。今まで勝ち組アパレルが、田舎の路面店だった、ユニクロ、しまむらの攻勢で、現在、負け組と転落した行くことになるとは、当時、誰も考えていなかっただろう。遠州産地も、工賃の下落は当然で、1年間仕事があった工賃が、年間8か月位の稼働分しかなくなってきた。織物工場の減ることにより、織物生機生産が年々少なくなって、とうとう染色加工工場の廃業が、イッキに進んでいくことになる。ここから、私は、初めて「産地寿命」を、声にして、業界マスコミに訴えることをするようになった。当時は、誰も相手にしてくれなかったし、嘘つき程度に思われていた時期だった。ここの時代から、賃織りから、メーカーになって自販する織物工場が、グループ活動するようになる。その中に、福田織物も含まれている。

平成10年、日本で初の、織物産地展、ジャパンクリエーションがスタートした。遠州産地は、賃織りの産地なので、直接アパレルとの仕事はすることは、絶対許されないことだった。日本全国の織物工場は、自販をやることが、どれだけ難しいか、今では考えられないくらい、危ないことだった。要するに、賃織り100%でしか仕事をしたことがない織物工場が、JFWジャパンクリエーションを出たことがわかれば、今後、賃織りの仕事がもらえる保証はないのだ。そのために出るリスクを考えれば出ない選択をする時代だったかも知れない。また、その数年前から、テキスタイル・ネットワーク展(現テキスタイル・ネットワーク・ジャパン)が、遠州織物の、勇気ある4社(福田織物・遠州ネット・古橋織布・杉浦テキスタイル)が、自販を目的として、賃織り戻らない覚悟でスタートを切ったのが、遠州産地初の、自販グループなのだ。今では、それ以外の織物工場も、自販をするところが増えてきた。

平成17年には、弊社は、遠州産地初の海外販売で、単独でイタリア、フランスに販売を行った。国も海外輸出の声が高まり、平成19年に、綿工連主導の海外販売がスタートすることになった。遠州産地では、福田織物と古橋織布さんと2社で、その他は、大阪、滋賀、岡山の工場が参加。イタリアミラノでのテキスタイル展を、遠州初の海外展示会を行った。評価は、すこぶる良かったし、すぐに販売には繋がらなかったが、可能性は大と感じ、後に古橋織布さんと弊社は、海外の自販を成功させたのである。現在でも、海外の自販は、2社しか行っていない。他にも、海外をやっている織物工場はあるが、自販ではなく、昔と同じ賃織りと同じように、30年前は、ほぼ99%が海外販売する生機を織っているだけであるのと変わらないのである。自販は、そんな簡単には出来ない。残念ながら、遠州織物海外に認められているのは、遠州織物ではなく、会社の個のテキスタイルなので、日本の織物産地の中で言えば、遠州産地の生地が、残念ながら、それほど売れてないと思われる。